随分 家から出ていない。3年ぐらいになるだろうか。
僕が 毎日 することといったら。睡眠。食事。排泄。入浴。ネット。読書。音楽を聴くこと。そんなもんだ。
食事は 母親が作って部屋まで運んでくれるし 欲しい本やCDなんかは ネットで注文すれば 送られてくる。
僕は 仕事もしていないわけだけれど そういった買い物の代金は 母親が 全部 払ってくれる。何にも云わずに。
便利な世の中だ。パソコンがあれば 欲しいものは たいてい 手に入る。
そういや 最近 服を買っていない。部屋にいるだけだから お気に入りの ナイキのスウェットを いつでも 着ている。
僕は 何の 役にも 立っていない。なんにも 生み出さない。感情さえ あんまり 動かない。ただ ここに いるだけ。

僕は なんのために ここでこうして 呼吸をしているのか。僕は 此の世に 必要なのだろうか。

或る日 ヤフーにアクセスしたら トピックスに 『桜開花宣言』 という 文字を みつけた。
外の世界では もう 桜が咲いたらしい。桜も 随分 ながいこと 見ていない。
僕は 桜は 散る頃がいちばん 好きだ。はらはらと 美しく 散りゆく様を 無性に 見たくなった。
僕の この 目で。桜が 見たい。ひさびさに 僕の 感情が 動いた。

1週間後。僕は 外の世界に いよいよ 出てみることにした。決行は 真夜中。
誰も居ない しずかな住宅街を 歩く。スニーカーの足音が 響く。足の裏に 堅い アスファルトの感触。
ひさしぶりの 外の空気。風が つめたくて 肌寒い。角のコンビニの あかるい照明が 眩しい。
曲がり角のさきに 桜の樹が出迎えてくれる公園が あるのだ。
桜は すっかり 満開だった。花びらも わずかに 散りはじめているところだった。
ライトアップされていて 大きく枝をはりめぐらしているその樹は 妖艶で なまめかしく あまりに幻想的で 僕は うっとりと 見惚れる。

ふと あたりの暗闇に目を遣ると 桜を見に来ていたのは 僕だけではなかった。
1匹の 犬が おすわりして 桜を 見上げていた。

まだ 子犬じゃないだろうか。ずいぶん 小さくて コロコロしている。真っ白な毛で 耳がぴんと立ってて 尻尾はふさふさ キツネみたいだ。
犬の種類は よく わからないが 柴犬だろうか。首輪もしていないけれど 捨て犬だろうか。

犬を こまかく 観察していると 犬と 目が 合ってしまった。犬は つぶらな瞳を キラキラさせて 尻尾を 振っている。
僕を まっすぐ 見ている。僕は 戸惑う。なんだか 逃げ出したくなる。犬に 背中を 向ける。
公園の出口へ急ぐと 犬も あとから ついてくる。僕は 立ち止まる。犬も 止まる。
困り果てて 座り込んだら 赤い舌を ひらひらさせながら 僕の傍に やってきた。
だまっていたら 僕の 手を 舐めた。それでも ほうっておいたら 僕の 顔を 舐めた。
しかたなく 僕は 犬の頭を 撫ぜてみる。けっこう 毛並みが良く 触り心地が 良い。
だけど 近くで見たら 白い毛は だいぶ 薄汚れている。やっぱり 捨て犬なんだろうか。
犬は 調子に乗って 立ち上がって 僕の肩に 前足をかける。どうやら 抱っこしてほしいらしかった。
僕は 抱いてやる。スウェット越しに あたたかい 子犬の体温が 伝わってくる。子犬は 眠たそうな顔で まだ 僕を じっと見ている。

 ―ひろってほしいのか?
子犬は 勿論 なんにも答えなかったのだけれど 僕は その あたたかい物体を 抱きしめたまま 家路を辿る。

玄関で鉢合わせた母親は 僕が子犬を抱いて帰ってきたのを 目を丸くして みていた。
暫く 口を ぱくぱくさせていたが やっと か細い声で 『どうするの それ。』 と 訊いてきた。
『飼う。』 と 僕。 『食事は どうするの。散歩だって しなければならないのよ。』 と 母親。
僕は ちょっと 考えて 『食事は 僕のを 分ける。散歩は 僕が やる。』 と 答えた。
母親は さらに 目をまんまるく見開いて 口をあけて 部屋へと向かう 僕と子犬を 見送っていた。

それからというもの 僕は 子犬のために いそいそと 食事を作ったり 深夜 ほんとうに 散歩にでかけたりしている。
子犬がやってきて 僕の生活は 前とはちがうものになった。毎日 外の世界に出るなんて 思ってもみなかった。
笑うことも 多くなった。子犬は いろんな表情をしてみせるので 見てるだけで 飽きないし 面白い。可愛い物体だ。
この かよわい命は 今 僕によって 生かされているのだ。僕がいなければ 食事を摂ることも できない。
僕には 此の世に存在する 意義が 生まれた。子犬は 僕を 必要としてくれる。僕は いま 子犬のために 生きている。

子犬は メスだったので 僕は彼女に 『サクラ』 という名前を つけてやった。 

PUPPY IS AT A MY BACK